夫を亡くした女の話(2)

 気づけば女は自室にいた。手に持っていたはずの懐中時計はない。机の中から自身の日記帳を取り出し、最後の頁を確認する。夫が死んだ一年前の日付だった。

 夢見心地のまま、玄関へ足を進める。家の前では慌ただしく荷積みが行われていた。従業員に何事か指示を出し、荷物の確認をしている男。その男が、女の存在に気づき振り返る。強面の顔に照れたような笑みが浮かんだ。

 声が出せないほどの歓喜に、女は身体を震わせた。慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる姿から目を離せない。最初の涙がこぼれ落ちると、あとはもうとめどがなかった。



 女は幸せな日々を過ごす。今度は後悔のないように、一日一日の大切さを噛み締めながら。二人は再び絆を深めていく。



 この時期の米問屋は忙しい。新米を買い付けるため、産地に直接赴いて交渉するのだ。その日も、いつものように夫を見送った。

 女は自身が死者に会いに来たことをすっかりと忘れていた。

 数週間後のことである。一緒に旅立ったはずの従業員が一人で帰ってきた。慌てて駆け込んできたようで、ぜえぜえと肩で息をしている。

「奥様っ……実は……」

「……!」

 従業員の言葉を聞いて、すぐさま病院に向かう。到着した院内では、慌ただしく人が行き交っていた。医師を呼び止め、夫の名前と特徴を伝える。一瞬、医師が気の毒そうな顔をした。別棟の一室へ案内される。

 そのこぢんまりとした部屋に、夫はいた。

「馬車に轢かれたそうで、ここに運ばれてきたときにはもう」

 ベッドに横たわる遺体を前に呆然とする。

(そういえば今日は)

 以前夫が死んだ日と、まったく同じ日付だった。

 女は、いつの間にか自室にいた。日記帳の日付は、夫が死んだ一年前だった。



 それから何度同じ月日を繰り返し、何度夫を亡くしたことだろうか。

 二度目は訳も分からず、一度目と同じように過ごして再び馬車に轢かれた。

 三度目はできるだけ外出しないよう頼み込む。しかし、今度は店先に立っていたところを通り魔に襲われた。

 さすがに時間が巻き戻っていることを受け入れる。

 四度目は、問題の日になると夫に一日中張り付き店先にも出さないようにした。その日を乗り越え安心していたら、最初の日に戻っていた。

 今は何度目だろうと、ぼんやりとした頭で考える。

 顔が判別出来る死に方ならばまだ良いほうだった。今度はどのような最期を迎えるのかと冷静に考えて、女は愕然とした。夫の死に顔に慣れてしまったことに、激しい自己嫌悪を覚える。





 女の涙はとうの昔に枯れ果てていた。





「こんばんは」

「……」

「そろそろ来られる頃だと思っていましたよ」

「あなたは私に何をしたの」

 ぼそりと尋ねる女に、少年は軽く頷く。

「やはり、理解されていなかったのですね」

 それでは、と前置きして少年が話し出す。

 一、オルガンの音色を聴いた者は、死者が生きていた、ある一定期間に魂を飛ばすこと。

 一、魂を飛ばした者の体は、眠るように死に向かうこと。

 一、体の活動が停止するまで、前述の期間を何度も繰り返すこと。

 一、繰り返す期間の長さは、対価によって異なること。

「説明を途中で遮ったのはあなたですよ」

 幾度も同じ月日を繰り返してきた女である。身をもって知ってはいたが、他人から聞くと余計に堪えた。

「どのような過程を経ようと死者が生き返ることはあり得ません。死者の時間はそこで止まってしまうのです。実際、あなたの様にここに来て、いまだに夢の中で満足している方だっていますよ。あなたは覚悟が足りなかったようですけれど」

「そんな……」

 少年の言葉に、女は酷く打ちのめされた。

(どこかでまだ期待している自分がいたわ。ここに来れば何かが変わるのではないかと。……でも、そんな都合の良い未来はないのね)

 項垂れた横顔に髪が一房こぼれ落ちる。

「もう、辛いのは嫌」

「……死んでも夫君に会いたかったのでは?」

「こんなの、違う、違うの」

 女はかぶりを振る。

「お願い、助けてっ」

「そうですか……残念です」

 溜息をついた少年が、女の顔を真っすぐ見据える。

「あなたを帰すことは出来ます。ただし、対価が必要です」

 女の視界が揺れる。少年の口の動きから何事か言っているのはわかった。しかし、内容が頭に入ってこない。

 パイプオルガンの音が近づいてくる。重苦しい和音が身体中に鳴り響く。パイプの群れに吸い込まれる感覚を最後に、女の意識は途切れた。





 瞼を開けて最初に目に入ったのは、真っ白な天井だった。頬にそよそよとした風を感じる。どうやら女はベッドの上に寝かされているらしい。

(私は何を……)

 咄嗟に体を起こそうとするも、全身が鉛のように重く、足に至ってはぴくりとも動かなかった。かろうじて首を僅かに横に向けると、腕に管が付いているのが目の端に見えた。女は動くことを諦める。

(……喉が渇いたわ)

 声を出そうと、かさついた唇を震わせる。しかし、ひゅうひゅうと笛のような音が出るだけだった。次第に疲れて、また目を閉じた。

 再び女の意識が浮上した時、遠くから足音が近づいてきた。扉を開ける音がする。誰かが顔を覗きこんだ気配がした。女が瞼を震わせていると、息を飲んだ様子だった。甲高い声で医師を呼ぶ声と慌てて去っていく足音を聞いていた。


 女は一ヶ月ほど意識不明の状態だったらしい。背の中ほどまであった髪は肩につく程度まで短く切られ、筋力が落ち、元々細かった体はますます棒切れに近づいた。女は発見される前より老け込んだように見えた。医師や義父母の話では、女は郊外にある森の入り口で倒れていたらしい。帰ってこない女を心配して様子を見に来た近隣の農家が発見したそうだ。

 周囲が一番驚きだったのは、目が覚めた女が夫に関することだけすっぽりと忘れていたことだ。まるで最初からそのような人物はいなかったかのように。幼い頃の思い出も、結婚後の幸せな記憶も、何もかも。二人が大切に築いてきたものはすべてなくなってしまった。

 周囲の人々は、そんな女の様子に同情した。最愛の夫を亡くし、若い身の上には悲しみが深すぎて耐えられなかったのだろうと噂した。



    ☩ ☩ ☩



 最後の一音を打つ。少年は鍵盤からゆっくりと指先を離した。余韻に浸っていた少年に、声をかける者がいる。

「ハロー、音の調子はどう?」

「とても良いですよ。いつもありがとうございます」

 オルガンを弾き終わった少年が後ろを振り向く。そこには、少年にとっては見慣れすぎた人物がいた。直前の演奏を聴いていたのか、その琥珀色の瞳は爛々と輝いている。青年と一緒に軽く調律を行った後、少年はアフタヌーンティーに誘う。青年は喜んで誘いに応じた。

 サロンに移動した二人は、テーブルをはさみ向かい合って座る。紅茶の香りを暫し楽しんだ。一口飲んだところで少年が話し出す。

「それにしても、あなたも人が悪いですね」

「おや、何のことだい?」

 首を傾げる青年にぴしゃりと告げる。

「とぼけても無駄です。あの女性に甘言を囁いて、尚且つここを教えたのはあなたでしょう」

「……いやあ、ばれてしまったか」

 苦笑する青年に、反省の色はあまり見られない。少年は、正面の顔をじっとりと見上げる。

「毎回言っているでしょう。僕の演奏を必要とする方は、自ずと来訪されます。わざわざあなたが噂を流す必要はありません」

「分かっているよ。僕はオルガンあのこが力を発揮できる機会を増やしたいだけさ。死者への音楽を奏でている時が一番輝いている」

 青年はその姿を思い浮かべているのだろう。愛おしそうにオルガンが設置されている方向を眺める。

「それには聴衆がいなければね」

 青年はにこりと微笑む。大層晴れやかな表情だった。少年は諦めて一言言うに留める。

「……ほどほどにしてくださいね」



    ☩ ☩ ☩



 森の奥深くには、古くから不思議な洋館がある。今日も今日とて、パイプオルガンの音が鳴り響いている。