「やばっ、降ってきた」
今日に限って折りたたみ傘を持ってきていない。通勤鞄を傘代わりにし、慌てて近くのバス停に駆け込んだ。
ふうと一息。鞄からハンカチを取り出し、濡れたスーツを軽く拭った。その間にも雨足が強くなる。時刻表によると、次のバスが来るまでしばらくかかりそうだ。ベンチは濡れているし、このまま立って待っていよう。
ネットサーフィンをしながら時間を潰していると、聞き慣れない音が耳に入ってきた。ぱすぱす、といった表現が一番近いだろうか。雨がアスファルトを叩きつける音ではない。かといって、傘が雨をはじく音でもない。
視界の端で緑色の何かが動いた。ちらりと右下を見やる。
茶色い猫が、大きな葉っぱを持って立っていた。傘代わりだろう葉っぱをぶんぶんと振り、水気を切っている。思わず二度見する俺に気づいて会釈してくれた。
「あ、どうも」
できるだけ自然に見えるように顔を取り繕う。しかし、脳は目の前の光景を処理しきれていなかった。混乱のままにポケットからハンカチを取り出し、猫へ差し出す。
「これ、よかったら体を拭くのに使ってください。さっき俺が使ったから少し濡れているけれど、ないよりはましかと」
猫は目を見開いて、俺とハンカチを見比べている。引っ込みがつかなくなった腕。ああ、何をしているんだ俺は。
「にゃあ」
「あ」
手の中のハンカチがなくなる。猫は、こちらの顔を見ながら数回瞬きした。葉っぱをベンチに置き、にゃうにゃうとハンカチで頭を拭きだす。尻尾が左右にゆっくりと揺れていた。機嫌よさげな様子にほっとする。
顔の向きを前に戻す。あの聞き慣れない音の正体は、葉っぱに雨が当たる音だったのか。なるほど。しかし、新たな疑問が出てきてしまった。……なぜ猫が二足歩行を? 前足で葉っぱやハンカチを使用していたし、こちらの言葉を理解している反応だった。
……深く考えるのはやめておこう。
スマホを見る気分でもないので、今後のことを考えようと腕を組んだ。すでに乾いていた鞄を抱え込む。雨は依然として降り続いている。バスに乗るまではいい。晩飯についても、家に残り物があったはずだから、スーパーに寄る必要はない。問題は、バスを降りてから家に着くまでの間だ。ずぶ濡れになることを考えると今から憂鬱になる。
「にゃん?」
「ん?」
どうやら無意識に溜息をついていたらしい。隣の猫が心配そうにこちらを見上げていた。
「ああ、今日は傘を持ってきてなくて。家までどうやって帰ろうかなと悩んでいたんです」
猫が返事するように鳴く。意味はわからないが、励ましてくれているのかもしれない。そう思うと胸が温かくなった。
猫と会話らしきものをしていると、遠くから光が近づいてきた。目の前で停まったのは、人間が乗るには小さすぎるサイズのバスだった。隣の猫は、このバスを待っていたのだろう。もう何も言うまい。
猫が、ベンチに置いていた葉っぱを前足で取る。そのままバスに乗り込んだかと思うと、すぐに戻ってきた。その前足には、先ほどまでは持っていなかった、虹色の傘があった。猫の背丈の倍はあり、形は見慣れた人間仕様のもの。
「もしかして、俺に?」
「にゃあ!」
「……ありがとう」
満足げにもう一度鳴いて、猫は去っていった。猫の乗ったバスが見えなくなるまで、俺は小さく手を振り続けた。
しばらくして、再びバスが走ってくる。今度こそ正真正銘、人間が乗れるサイズのバスだ。バスに乗り込み、扉付近の機器にICカードをかざす。車内を軽く見渡して、後列の空いている席に座った。
バスの振動に揺られながら、ほんやりと手元の傘を見る。非現実的な体験だったが、この硬質な感触は本物だ。そういえば、どうやって返却すればいいのだろう。驚きの連続で、尋ねるのを忘れていた。俺のハンカチも返ってきていないし。また、あのバス停に行けば会えるだろうか。
表情豊かな猫の様子を思い出すと、自然と頬が緩む。
次の雨の日が楽しみだ。